平松龍馬、千葉生まれの当年三十六歳。今展が弊館初個展である。ひょんな縁からつながりができ、ここ数年来仲良くしてもらっている。きっかけは飛び込みの営業のつもりもあったのか、彼のほうからやって来たのである。面識のない人の訪問を受けて、その後も関係が深まっていくことはそうめったにない。ものいう作品を作っている人はそんじょそこらにいないということである。これも得がたき縁と思うのである。
第一印象は、金銀多用のいやに光りものが多い人といった印象だった。しかし目を凝らせば内と外との思い切った場面展開があり、内の金属的な、視覚が滑るようなテクスチュアと、外は全面にヒビを施した峨々たる風情との対照がカッティングエッジである。異例といったものを感じさせる。なにか面白いことをしようと決心し、思い切ったような、荒ぶったような、そのような、突き抜けているなあと思わせるものがあったのである。
写真の作品は片口茶碗と酒盃だが、ディテール蝟集の、めくるめく様相である。以下彼の作品に通底する技法を記してみたい。彼いうところの亀裂文シリーズの技法である。彼の作品には全面に亀裂が走っている。これの入れかたがユニークで、筆者はバーナーかなにかであぶってヒビ割れさせているのだと思っていた。しかしさにあらず、彼の場合、両の手で土をいじり、玩びながら亀裂を発生させている。なにやら手品師のようである。概略こうである。土を伸ばしたり転がしたりしながら、ちょうどよい土の硬さと手触りを見極め、それを板状のタタラにして、折り紙のように、たとえば四つ折りに折り畳むのだそうだ。畳めばタタラは二層になる。もう一回畳めば四層になる。畳まれた内側のタタラの層は当然外気に触れない。一方外層のタタラの表面は乾燥し続ける。そうすると内層と外層の乾燥度合いの差異によって、外層にヒビが生じて来るという。バーナーであぶったりせずに、時間の経過によって自然にクラックを発生させているのである。成形はこのヒビの入ったタタラ板を何枚かパーツにして成形される。ロクロにあらず、型にあらず、ヒモ作りにあらず、手捏(づく)ねにあらず、またタタラ作りとも趣きを異にして(パッチワーク的である)、テクニカルなところで非常にユニークだと思う。
技法的な気付きとか発見というものは、作るという継続と連続のなかからしか得られないものだと思う。そしてそれがユニークであればあるほど、その人の武器となり自信となり、それによって表現されるものがその人の代名詞ともなったりする。平松も上述の技法をベースに作品の展開が一気に広がっていったのではないか。技術や技法の獲得は、ブレイクスルーのための大きなはずみとなるのである。彼の場合は、ちょっとした発想の転換からの気付きだったかもしれないが、しかしこのやり尽されてきたやきものの世界である。書いてしまえばなあんだそうかと思われるだろうが、そこは試行と反復と工夫の連続があったはずであって、簡単なことではなかったろうと思うのである。マニュアル的にこうすればこうなるといったものではなく、余人には容易にマネできない技法だろうと思うのである。
しかし筆者はまたこうも思う。芸術を嘯(うそぶ)くのであれば、技法は、抽象というか表現のための支えであって、可能性を広げるための手段にすぎないと思う。その上位に詩藻(しそう)がなければならないのである。批評精神というのも芸術の人に必須なのではないか。そうでなければ真に迫ったものはその人から出て来ないだろう。なにに迫り肉薄すべきなのかといえば、それは自然というか造化の妙であり、美であり善であり、人間ということになるのだろう。神ならぬ身である、表現はその断片でいいのである。また大仰なことをいっているが、彼にも常により高次なものを見上げながら、そういったものへの驚きや憧れを忘れずにいてほしいと勝手ながら思ってしまうのである。-葎-
平松龍馬展Ryoma HIRAMATSU
Standing Beyond The Technical
5/6 Sat. 〜 21 Sun. 2023