秋山陽讃
ものを生すということは、創作ともなれば初手から悩ましい。そのとば口に至るのさえ苦しい彷徨を強いられるのだろう。要するにおのれはなにを作り、なにがいいたいのか、したいのかという地平にたどり着かねばならない。でないとすべては始まらないのである。それは少数者のみに許される啓示のようなものかもしれない。創作の”創”には刀傷(かたなきず)というほどの意味がある。確たる端緒と方角をわがものとするまでには、深傷(ふかで)浅傷(あさで)を負いながら、もがきあがく時間があるように思われる。ものを生す、神まねびをするということはそういうことなのであろう。ゆえにそのとば口に立てたときの歓びはいかばかりのものか…。
創世のはじめに神のロゴスありきという。秋山の場合、はじめに土ありきといったところかもしれない。しかしそれは来し方をかえりみていえることなのではないか。彼の志は若さゆえのもの知らずのままに高かったであろう。そこも悩ましいところで、土という素材は眼前にあるとしても、このマテリアルとの渡りをいかにつけるか、単なるマテリアルとして抵抗もなく狎れるか、あるいはそれ以上、以外のものとして見るかといった葛藤があったにちがいない。原理的に考えるということ。彼の創作は、素材にまつわる唯物的視点を超えて、土という物質への根源的な問いかけに始点をおくものだったように思う…。
秋山は、創作の始点となるパトスに忠実であった。それは想起とともに心魂の内奥で反応を起こす。心魂のふるえに対し鋭敏だった。そのふるえはピュアな心魂に生起する。彼の純粋がそれを堅持し続けさせたように思われる。若かりしころ、彼の日常的身辺には八木一夫がいた。師弟関係というものはこの世でもっとも得がたい人間関係かもしれない。八木はときどきに秋山の心魂に引っかき傷を残す。八木はロゴスの人でもある。気になる若者ともなれば八木も言葉を選んだだろう。言葉は短い。謎かけ、引っ掛け、空とぼけ、捨て台詞。秋山はきょとんと、あるいは抵抗したが、創痕(きずあと)をさすってみれば、あゝそういうことか、こういうことであったかと、あとで思いなせることが多かったという。八木も秋山も宮仕えに長い時間を差し出している。しかし学校というある種の行政組織のなかで消耗させられてしまうことはなかった。教員生活の間隙を縫うようにして、疲れを覚えながら制作に立ち向かい、作家として立ち続けようとした。秋山はそれを見ていた。芸術の教育といったものは、そういうものなのではないか。彼は意識せずとも、この世にまれな師恩に浴していたのではないか。それは盲亀浮木のごとき邂逅といえるものだったのではないか…。
筆者は秋山の大きな作品の前に立つと陶芸という言葉が吹っ飛んでしまう。しかしその造形は陶ならではの、陶でなければ成し得ないものである。土の、陶土の恩恵を最大限に引き出しているのである。それはどこそこの土とか、種類とか、個別の特性のことではない。形容の問題ではない。うまくいえないが、土”の”ではなく、土と可塑性、土とエネルギー、土と空気、土と時間といった広く深い問題に対して、いわば哲学的考察を彼は加えてきたのだと思う。くり返せば原理的に考えるということである。だからこそ彼は土と主体的に対峙できているのである。土を読み、土を導くような、そして土のそこを突くかといった心にくい表現をオリジナリテのうちに成し遂げているのである…。
今展では白磁の作品を十数点出して下さる。文学作品の書き下ろしではないが、初出となるだろう。銘して”Naked Seeds”との由。掌中に収まるというか、両の手で持てるディメンションである。白磁の白といえば、それは白磁は白いといった白磁の一つの属性に過ぎないが、秋山は白い白磁、白い造形といった意識で作るのだろう。作品に付随する白などではなく、白自体の、なんだか持って回ったいいようだが、白の形相あるいは白のイデアのようなものを仰ぎ見てものを生すような人だと筆者は目してしまうのである。”はだかの種子”とは生成の初めであろう。なにもかもを取っ払ったむき出しの状態である。可能性だけがあるのか。それも多様な、無限の。秋山はまた還ろうとしているようだ。何度でも始点に還ろう還ろうとする。いまだおのれの知らないことがあることを知るからであろう。いい古されているが初心に還るのである。そして何度でも発心を起こそうとするのであろう。それはすなわち彼が原理的にものを思考する人であることを証左していると思うのである…。
本展では見立ての碗も一群で出陳される予定です。何卒のご清鑑を伏してお願い申上げます。-葎-