最近大谷翔平が出るので大リーグのダイジェストを毎晩見ている。大相撲でもそうだが、ひいきの力士が日の出の勢いともなると、どうしても見たくなるものである。大谷はいまのところ三割強の打率と、本塁打でもトップ近辺にいていやがおうにも惹きつけられる。複数安打や本塁打を打ったらなおさらである。しかし彼とて不発の日がある。なんだここで三振かとがっかりすることもある。野球は、小さくて硬い球を、投げて打って守るスポーツだが、思えばあの硬球をバットという太くもない棒で打ち返すのは、ましてや観客席まで持っていくのはむつかしいことだろうなあと思わせられる。球体の硬球を円いバットで打つのだから点を点で打つということである。ミリ単位でそのベストな接点をさぐらねばならない。インパクトの際、大谷のパワーで球はひしゃげたりするが、バットの芯で球体のある一点を捉えようとするのである。投げるほうは、球を動かしたり、渾身の速球で攻めてくる。死球が危ない。そんななかでの勝負である。そして大谷の三割といえども、十回立って七回失敗があるということである。本塁打は何十回立ってやっと出るときもある。しかしプロだから数字と結果がすべてである。プロの選手は、大部分が失敗の十中八九といった歩留り(ぶどまり)のなかで、どれだけの成績が残せるかどうかに、衣食を懸けて勝負しているのである。大谷の歩留りは頭抜けている。彼は稀人(まれびと)なのであろう。
歩留りといえば、やきものの世界でよく口にされる言葉である。やきものも空振りや失敗が多い。自然を相手にするからである。木火土金水の、殺し合いと生かし合いのなかで作られるからである。へたすれば歩留りゼロに泣くこともある。しかし歩留り100%ということもある。たとえば職人の仕事はそこを求められる。名人の域にある職人で手慣れた常の仕事なら、ほぼ100%の歩留りでやってのけるのだろう。
一方で大谷翔平ではないが、歩留り三割、いやたとえ一割でも、自他ともに許され享受されるステージがある。やきものも芸術と目するならばである。そこは抽象の世界である。なにか美しいもの、真に迫るもの、新たで未見なるものを、おのれの真骨頂の境域で抽象しようとするならば、もう歩留り云々の世界ではなくなるのである。歩留まりなど百に一つ、千に一つの世界の話になってくるのである。そこが職人世界と画然と別れるところなのである。どちらが上、下というのではない。しかしそもそも歩留りの期待できない人が、抽象の世界で抽象を行おうとするのは剣呑であり悲劇でもある。そこは大谷翔平同様、稀人の棲むところなのである。
鯉江明展も今回で九回目となる。初個展が2011年、あの東北の大地震の直前、3月5日が初日だった。父君鯉江良二は健在だった。思えばひと昔である。
「鯉江明は遮二無二作っている。日々の修行か稽古事のように。その姿勢や良しである。とにかくこの今、オレは作るのだという決心でいるようだ。作るその数はおびただしくなる。そして、まあその歩留りはともかく、なかにハッとさせられるものが確かに混じっている。それら格別のものは、彼の作るストーンウェアの堆積のなかから、まるで重力を脱して浮かび上がってくるように目を射る。一目、これだと思わせるものが散見されるのである。これを才能というか遺伝子的なものと思うのか、とにかく彼は何者かではあるように思われる。よって今回の展という仕儀になるわけで、当方も義理や酔狂で展をお願いするわけにはいかないのである」…。初個展の時の拙文だが、父上の影を感じさせる。そして彼はそもそも歩留りのないような男ではないということを言いたがっているようだ。上述の稀人たる歩留りをいえば、さて今展では如何に。一点でも多くその高からんことを心から期待し到来を待っているのである。-葎-
鯉江明展Akira KOIE
Seeking for a Rare Harvest
7/27 Sat. 〜 8/11 Sun. 2024