浅野哲の作品は、いわゆるイズラミックで、モザイク的、アラベスク的風情を湛えて一流独自である。しかし元々は、古代ギリシャローマの石造構築物に触発されてのことだったらしい。石の組まれ様、積み上げられ様に興味を覚えるのだが、とくに門というかゲート、アーチ状の築造物に心ひかれ、本格的に器物に入って行く前後は、そういったものにインスパイアされたオブジェを作っていたようだ。石に見立てた陶片を貼花技法でもってモザイク状に貼り付けて作っていたらしい。多彩な釉を駆使するアラベスク的装飾になっていくのは器物を作り始めてからのことである。今回聞いてみて初めて彼の源流のようなところが窺われた。初期の習作的なオブジェが敷衍(ふえん)されて今の彼の作域がある。いわば抽象から具体へ移行しながらも繋がっているわけで、そこに堅固な一貫性があるように思われた。自己同一性というか一貫性を失わない人は信用できるのである。そのような人の作品にも同じく信用がおけるのである。
お話し変わって、やきものにはやきもの的ディメンションというものがあると思われ、筆者などは、うつわ、オブジェに関わらず、あんまり大きなものは敬遠したくなるきらいがある。なにゆえにここまで大きく作らねばならないのかと思うときがある。このような好みというか傾向は日本的なもので、茶とか日本建築に影響されてのことなのかもしれない。狭量な好悪かもしれないが、文化や風土に根差すものだから仕方がない。と言いつつ矛盾するのだが…、前々から筆者が彼にお願いしてきたことがある。それは彼の作域や作風から超出するような大作を一点作っていただきたいという願いである。ここ数年来しつこく言ってきた。彼は非常にマイペースな人で、波瀾を嫌うタイプのように思うので、うるさく思っていたことだろう。しかし作家にとって外部からの波瀾もときには必要なのではないか。
それは会場の重力を一点に収斂させるような、そして辺りを払い、他の作品がそれに侍り、随伴させられているかのような、異例のディメンションの作品をと願ってきたのである。畢生の大作をと願ったのである。
指折り数えれば浅野の個展も九回目となる。もはや二〇年以上になるだろうか。彼はイスラム美術のモザイク的文様をやきものに合一させようと、それを一つことのようにやってきた。そんな彼の継続に対し敬意を寄せたく思う。変転のうちにがらりとした変化や移動を見せる作家が一方にいるが、浅野はその対極にいるような人だと思っている。ちょうど落語家が一つの噺を幾たびも高座にかけ、磨きあげ洗練を加え、至芸の域に持って行くようなものだと思う。そのためには、自身の作品に対しては常に不足感というものを抱き続けねばならないのではないか。そして不断に否定や捨象、また付け加えをなしていかねばならないのである。それは技術的にもいえることだろう。いわばそのための消しゴムのようなものを心に持っているかどうかが問われるのである。浅野の消しゴムは使いに使われ、黒ずんでチビているだろうか。
筆者の口癖で何度も言うが見物は残酷である。その一見物の残酷な要望、件(くだん)の、彼にしては異例の大ものが今展では見られるかもしれない。今作っていると彼は言っていた。今挑戦していると言っていた。マイペースの彼ゆえ間に合うかどうか、首尾よく収穫できるかどうか…、筆者は他の残酷な見物衆とともに鶴首して待ちたいと思っている。
今展も何卒のご清賞を伏してお願い申上げます。-葎-
浅野哲展Satoshi ASANO
Longing for a Masterpiece
11/16 Sat. 〜 12/1 Sun. 2024